戦前の金沢の廓のパンフレットを戴きました。カフェで閲覧できます。

「金沢の口頭伝承」
ご近所にお住いの85歳の女性がご来店

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
。もうこの周辺にお住まいになられて60年ということだったので、いろんなお話を伺う。金沢には「ひがし」「主計町」「にし」の三大茶屋街があるが、その昔は「きた」の茶屋街もあったという。それは初耳。また、昔はこの辺りは「お妾さん」さんの家が多く、「めかけまち」と呼ばれていたそうだ。今は観光地として武士建築の流れとかばかり強調されているが、そういう歴史を知ることは大切だ。一時間余りも貴重なお話を伺えた。すると午後にその女性がまた訪ねてきてくれた。何と戦前発行の茶屋街の案内パンフレットと明治大正生まれの地元の人からの聞き取りによる「金沢の口頭伝承」の書籍を持ってきてくれたのだった。嬉しいな。ご近所のこういうつながりがひろがっていくのが本当に心地よい。戦前のパンフには、「抑も金澤花街の起こりを尋むるに、今を距ること百十年、文政三年に時の藩政を以って浅野川卯辰及び犀川石坂の函所に」、所謂茶屋商売を許したのが始まりで、、、殊に廃藩を伴って武家の娘が花街に身を沈めるもの多きに及び、妓に金澤美人の標準は依然として高まったのである、、、金澤の花街は今や七百に余る美人を要し、、、」とある。
また、「金沢の口頭伝承」では、「向かい山(卯辰山)に上がってぇ、お城の方へ向かってぇ、でっかい声で飢饉で「食われんわいやあ、食われんがいやぁ」と叫んだってね。飢饉のときに、コメがなくてお米獲った人が食われんで、前田の殿さんに上げた訳や。そしたら、上げたのわからんと言うて、みな撥ね首になったんやろ。」(成瀬スズ明治34年生まれ)とある。安政の泣き一揆について、このように先祖から伝承されてきたのだろう。前田家加賀百万石が売りの観光地であるが、この東山の地にはこういう庶民の歴史もがしっかりと伝わっている。このカフェにはご近所のお年寄りが結構来てくれる。私もできる限り口頭伝承を記録していきたい。